海を駆けてきた。

このところ、アナログとデジタルについて考えることが多くてついアナログとここでも書いてしまったが、ただの映画の感想である。我々は得体の知れないものにであったとき、まだ見ぬ「危機」とも人類の希望ともとれる存在に出会ったとき、あるいはどうしようもない不条理をこさえる存在に出くわしたとき。そうした存在を排斥したり恐れたり、礼賛したり無条件に受け入れたりしがちだ。こうしたゼロとイチの決断・行動はデジタル信号であり、極端だ。本来、こうした状況での最適解はゼロとイチの間にある、ぱっと反応しただけでは見つけられない微妙な位置にある。多くのものは本来アナログで、何かがはっきりと決まっているなんてことはほとんどない。

そんなことを、この映画を見ながらも考えていた。

淵に立つ

このブログにも感想を残しているが、「淵に立つ」という映画がある1。「淵に立つ」はわたしにとって衝撃的な映画だった。それはまさしくわたしが思い描いていた映画であり、それは何よりも当時の明日も見えない暗闇を生きる自分にとってとても大きな存在だった。救いとか慰みとか、そんな言葉で形容できるものではない。当時絶対的に孤独だったわたしに、孤独とは何かを、家族とは何かを知らしめた映画とも言える。ともすれば、映画とはなにかをも。

海を駆けるは、淵に立つの深田晃司監督の最新作である。

ラウ(海)

海は生命の源泉であり、そしてすべてを飲み込む破壊者でもある。海は、時に人を救い、時に人を殺める。海にとってはそのどちらもが簡単だ。それはラウにとっても同じ。

ラウという男は海から現れた謎の男(ディーン・フジオカ)だ。ラウは現地の言葉で海を意味するらしい。打ち上がったあとで被災地のボランティア活動に従事しているタカコさんに名付けられる。

ラウは素晴らしい男だと絶賛するものがいる中で、ラウは人を殺したと糾弾するものもいる。きっとどちらかが正しいわけではない。どちらかが間違っているわけでもない。海は穏やかにそこにあろうが、津波で牙を向こうが、どちらも海だからだ。

ラウという存在は生命を奪うこともある。ただ一方で生命を吹き込むこともある。そこに「是」と「非」をつけるのは生命の価値に順序をつけることにもなる。ラウは人の形をしているからわかりにくいが、では「海」は、雨は、台風はどうだろうか。生命を奪う一方で恵みを与えている側面もあるだろう。

ラウが「奪った」か「与えた」かのデジタルで彼の行動の良し悪しを判断はできないのだ。

映画

改めて思うのは、映画というのは適切にシーンとシーンを切り貼りしてつなげた映像でしかないということだ。きれいな海を移すことはできるが、人の心の中を描写することはほとんどできない。

そして明らかに軽快で自然だ。生活に不必要な説明は誰も言わない。日本語と英語とインドネシアの言葉が入り乱れても、誰が何語をしゃべるのかわかっているから自然と気配りができている。その自然さが自然すぎていい。

過剰に説明しないのもいい。自分のネタをとられ、泣くイルマにあなたは何を思っただろうか。それはあなたに委ねられている。

まとめ

いい映画だった。村上春樹の小説を読んでいるようだった。

きれいな海と不思議な男、ちょっとだけ不思議な4人の関係性。ドラマティックでもなければ感動的でもないけれど、それこそが本来あるべき人々の豊かな生活じゃないだろうか。

派手に難しく悩むより、地味に無駄に悩んでいることのほうが多い。そして、それでもいい気がする。


  1. 読みにくくて申し訳ない。わたしは当時はてなブログでこれを書いていた。今は読まれるとか読まれないとかをあまり気にしたくなくて、敢えてGoogle Analyticsさえ入れていないこんなブログに隠れるようにして想いを書いている。 [return]