最初に言い訳を書きます。この記事は本来別のブログで公開する予定の記事でした。単にこのブログに記事が少ないという個人的な事情とか、言い訳の部分を除き8,000字弱ものボリュームになったこととか、監督のトークショーに行ってしまったら「SNSなどでの口コミがかなり興行に影響するので宣伝お願いします」と頼まれてしまったこととかが影響して、先日「野暮だから何も書かない」と書きましたがこの場で公開することに決めました。

[http://hikaru515.hatenadiary.jp/entry/2016/10/08/181036:embed:cite]

見る予定という方はこの記事よりも上の過去記事をご覧ください。この記事はかなり核心に近いことを書いているので、いわゆるネタバレといっても過言ではないと思います。

では、記事本文へどうぞ。長いので時間があるときにお読みください。

Introduction

映画、「淵に立つ」を見た、先週の土曜日のことだ。これを最初見た時、「あぁこれが僕が見たかった映画だ」と感じたし、その思いはあくる日も変わらず、たまらず監督のトークショーがあるというので直接お礼を言いたくて翌日行った。パンフレットを買ってサインも貰った。実は僕は少しミーハーだ。

普段僕は別のブログで、映画の感想とは名ばかりで自分なりの解説、宣伝を書いている。「僕が面白いと感じたものをみんなに共有したい」という思いからだ。でもこの「淵に立つ」を同じブログで扱う気にはとてもなれない。この映画に感じたことを正直に書けば、自分と自分の家族との関係性を如実に表現することになる。それはともすればプライベートな事実を書くよりもプライバシーの侵害につながるかもしれない。

僕はこの映画を素晴らしい映画だと思う。だが僕はこの映画を宣伝したいとはとても思えない。トークショーで広告のためにはSNSなどによる口コミが大切だと言われたが、さすがに身を削ってまでこの映画を宣伝する義理はないと正直思う。

でも今朝聞いた深田監督の言葉を思い返してみると、自分の思いと重なるところがある。

僕は映画を鏡のようなものだと思っている。自分が今までどう生きてきたのかを映すような鏡だ。映画が何かを表現しているのは当然のこととして、その映画について自分が何を考えるたのかがその人の本質を端的に表すと考えている。その映画を見たあと自分が何を語るのか、それが知りたくて僕は映画を見ている。逆に言うと自分が何を考えているのかは実はわからない((こうした逆説的なことは、20世紀の無意識の発見による寄与が大きい。本作のパンフレットの監督自身のインタビューでこの逆説について述べ、監督自身の「フィクション観」にも影響を及ぼしている。))。

深田監督は本作「淵に立つ」を「100人が見たら100通りの意見が分かれる映画」と表現した。この物語をどう捉えるかが、その人の生き方や考え方を反映するのだと。僕は僕と言う一人の人間でしかないのだから、この映画のついて僕にしか書けないことがあるはずだ。そしてそれをきっちりと書くこと、それが僕がやりたいことであり、僕が映画を観続ける理由ではないのかと思う。

読者不在のこのブログで、迷い込んだあなたに語りかけてみる。あなたにとって「家族」とはなんですか?そして、あなたの「罪」はなんですか?

Staff & Cast

まず本作はカンヌ国際映画祭で「ある視点」部門審査員賞を受賞された、カンヌでも評価された映画である。この映画はフランスの助成金を勝ち取って製作され、スタッフにはフランスで活動している日本人やフランス人も。家族を描いているフランス映画っぽい雰囲気が少しあって僕はとてもいいと思っている。詳しくは、監督のロングインタビューをご覧ください。

監督・脚本・編集は深田晃司。実はこの監督の映画は初見なのだけれども、とてつもない衝撃を受けた。映画と言うとすぐエンタテインメントだと捉えられがちだがこの映画は芸術作品なのだ。見ている間の息苦しさを乗り越えて、見終わったあと流れるスタッフロールと主題歌を眺めながら「美しい」という感想がふつふつとわいてくる。自分はエッジの利いた先鋭的な、革新的な映画が好きだからこうしたものが僕にとってのエンタテインメントなのだ。まさに僕のツボにハマった映画だと言える。

構想は10年前からあったようで、パンフレットには10年前の原案(シノプス)や脚本なども掲載されている。

音楽は小野川浩幸。過去の作品でも何度か一緒にやっているようだ。フランスのスタッフの存在もこの映画の特に仕上げの部分には大きく寄与している様子が伺える。特に全く存在感のない((誤解を生む表現かもしれないが、ほめている。この映画は役者を見れば全てわかるのだが、それでも音楽が演技を引き立てる役割をきっちり果たしている。たとえ観客が音楽の存在に一切気が付かなかったとしてもだ。))劇中の音楽はかなり前衛的なはずなのだが全く違和感がない。

主演の八坂草太郎役は浅野忠信。「私の男」の淳悟を見てすごい好きになった。不気味で何を考えているのかわからないが、同時にすごく魅力的な男を演じさせれば右に出るものはない。あといつも思うけどなんであんなにエロいキスができるんですか。

八坂を迎え入れる鈴岡利夫役は古舘寛治。その妻の章江役は筒井真理子。いずれも演技見るの実は初見だったかもしれないが、凄まじい。特に序盤の章江さんはみずみずしくて溌剌として、信仰心もあってお美しいのだけど、8年後は本当に人が変わっていて驚く。演技というよりも人の身体だけをみて「あぁ時間が経ったんだな」ってわからされたのは初めてかも。

協会の集会などで旧知の仲だった設楽篤役は三浦貴大。「怒り」に出てたんですね、知らなかったけど。鈴岡蛍は子ども時代は篠川桃音、8年後は真広佳奈。子役のほうは2006年生まれなのはともかく、8年後の演者が1999年生まれというのに衝撃。僕よりいくつ年下なんだ……そしてこの演技なのか……驚愕だ。

後半重要な役割を果たす山上孝司役は太賀。詳しくは書かないけれど、彼はすごくいい演技をしていました。

ちなみに、あるシーンでAV女優のかた(みおり舞さん)が一瞬登場されているみたいです。Twitterで知って驚いたんですが、確かにこういう役はAV女優じゃないとできないか、とも。出番は本当に短いですがとても重要なシーンに出てきます。

Summary

鈴岡利夫は父親の金属加工の工場を継ぎ、妻の章江、娘の蛍と3人で暮らしていた。仕事も順調で夫婦の仲も一見すると悪くないが、よく観察すると母娘が神に祈りを捧げるのを待ちもせず食べ、妻のどんな言葉にも生返事を返す利夫。逆に利夫のやったことに対し目立った反抗こそしないものの事情を聞き理解しようともしない章江。確実にこの家族は冷え続けていた。

そんなある日、いつものように朝食を済ませると工場の前に男が立っていた。彼は利夫とは古い仲で、殺人で刑務所に入り最近出所した八坂草太郎だった。利夫は八坂に弱みを握られているようで、八坂の頼みで住み込みで鈴岡の工場で働くことになった。

章江は最初こそ反対し、娘の蛍も突然現れたおじさんに警戒するものの、八坂は蛍にオルガンを教えたり、章江のプロテスタントへの信仰へ理解を示すなどしてふたりの警戒を問いてしまう。その様子を見た利夫は、

「あんまり甘やかすなよ、俺を」

などとタバコを吸いながら八坂に言う。

家族の警戒を解き、協会や川遊びなどに参加して一家の「非日常」だった八坂が「日常」の存在へと切り替わり、章江は八坂に心までも許してしまう。ふたりが親密になっているのを勘ぐりながらも、八坂への弱みからか何も言わない利夫。

しかしそんな時、事件が起きる。事件が起きてから八年、八坂は居なくなり、家族の日常は様変わりしてしまった。だが、それまで働いてくれていた設楽の代わりにやってきた孝司の登場で、一家に再び八坂の影が現れる。いつまでも影を追い続ける利夫と章江。

八坂に支配された一家の運命は……

Impressions

かなり長いこと書くことに。

全体を通して思ったこと

まず注目したいのは、この家族は最初から崩壊していることだ。この映画のコピーは

あの男が現れるまで 私たちは家族だった

というものだが、実は最初から家族としてはバラバラだ。母娘のつながりは強いが、夫婦の絆は最初から弱い。

そしてそこに八坂が現れ、夫婦の絆とは違った八坂と章江の関係、蛍の八坂への信頼。そして八坂が日常的存在になってしまったがための一瞬の気の緩みが「事件」を引き起こしてしまう。そしてこの家族は八坂を「汚点」のように思い、残された蛍を「罰」だと感じながら八坂の居ない「日常」を過ごすようになる。だが事件を通じてこの家族がひとつになるようなことはない、バラバラのままだ。一緒に暮らしている赤の他人であることに変わりがない。

最初からバラバラだった家族が、事件が起きてもなおバラバラなのに一緒に生活することをやめない。見ようによってはとても不自然な現象だ。日本においては「それが家族」なのだが、よくよく考えてみるとどこかおかしい。そんな印象を持つ。

他にも残酷な一面がある。乱入者が現れても、「事件」が起きても結局非日常はいずれ日常になるということだ。八坂が居た期間はとても短かったけれど、それはバラバラだった家族の日常より少し幸福な期間だったし、居なくなったあともいつの間にかどんな苦痛も日常になっている。章江がキリスト教の信仰をやめたのも、不潔恐怖症にをやめられないのも、それが日常になってしまったからだろう。そしてそれはどんな悲劇も忘れられるように、人間の残酷な仕打ちのように僕には思える。

家族であっても赤の他人であること

ストーリーに関わるシーンで一番好きなシーンを挙げるなら、利夫が爪を切りながら章江に話すシーンだ。普通の映画ならこうした告白はとてつもない緊張感をバックグランドにしてことさらに強調するだろう。

この映画は真逆だ。BGMは足の爪を切る不規則なリズム、セリフにも全く緊張感がない。言っていることと口調が完全に乖離していて、なんでもないことのようにさらっと事実を述べる。

そして初めて妻は夫を「警戒」するのだ。深くドスのきいた声で「近寄るなぁ……」と言い、決して背中を見せずに警戒心の塊となり夫を睨みつける。章江はこの瞬間初めて、いくら夫であっても八坂と同じ「赤の他人」であると自覚したのかもしれない。

演出について

この映画の凄まじいところは、徹底して日常を描いているところにある。水道水を流したり、卵を割って箸で混ぜたりする生活音がまるでBGMかのように機能する。外で喋っているときに電車が通ってセリフが消える、アップで顔が写っているのに車がトンネルに入るから見えなくなる、など。映画的な演出とは逆をついている。だがそのせいで却ってリアルな映像になっていたり、恐怖の増幅になったりする。

セリフの少なさ

この映画のセリフが少ないのはそれが家族の会話だからだ。思い返してみると、普通人はそんなに話さない。夫婦であっても過去の話を詳細に聞いたことなどないだろうし、案外深い事情とか気になっても聞かないものだ。

利夫「古い友達で、今日から手伝ってもらうことにしたから」

八坂「八坂草太郎です、よろしくお願いします」

章江「あ、すみません聞いてなかったもので……」

突然人を雇うとなって気にはしつつも理由もあまり聞けない章江。案外、家族ってこんなもんじゃないだろうか。

また、家族だと共有している前提が多すぎて言葉を増やさなくても伝わることってすごく多い。こういうのを脚本に反映するのは結構大変だと思うので、観客に伝わりかつリアルなセリフになっているのはスゴイと思う。

音楽と役者の相乗効果

この映画の音楽は演技を撮り終わったあとにつけたらしいのだが、音楽がほとんど主張せず、かといって無駄ではないちょうどいい効果を出している。

特に、喫茶店で八坂が章江に過去の罪を告白するシーンなどは圧巻だ。八坂がアップで映されて吸い込まれるような演技をしているうちに、いつの間にか始まっているBGM。少し八坂の話に間ができると、カメラがスーッと彼に寄っていく。この演出は章江が八坂を完全に許したことを暗示するとともに、観客自身がその不思議な魅力にあてられてしまう。要は、「ひょっとして不気味で変なやつだけど八坂って良い人なのでは?」と観客にも思わせてしまう。これを怪演と呼ばずなんと言おうか。浅野忠信だからこそできることだろう。

後ろ姿

個人的に引っかかったのは、この後ろ姿。あるいは一人称視点でもいい。顔が見えない、相手が何を考えているのか分からないシーンが結構長い。移動しているだけなので実際のところあんまり意味がなさそうなのだが、それでも八坂や章江の後ろ姿が印象に残っている。

浅野忠信(八坂草太郎)について

これほど画面に写っている一目で異常だと分かる男は居ないだろう。何から何まで異常だ。その存在は途中で居なくなるも鈴岡家を支配し続ける。ほとんど白いシャツを着ているのに、一瞬赤いシャツを着ることでずっと赤のイメージを持たれ続ける男。

画面に写っているだけで不気味なのだ。異常に姿勢良く歩いたり、完璧な敬語、柔らかな物腰と好印象な側面。逆に、利夫とふたりきりのときに見せる乱暴な口調や、章江との情熱的なキス。感情の起伏が全く読めず、存在が恐ろしく感じられる。

「事件」のあと彼はスクリーンからは姿を消す。ところが居ないと分かっているのに、彼が家のどこかに居る気がするのだ。鮮烈な印象を残し消えた八坂は、自分が居なくなっても一家を支配し続けている。僕にはそれが八坂の利夫への復讐だったように思えてならない。直接的な復讐よりもずっと残酷で、二度とこの一家を誰も救えないような復讐なのではないか、と。

筒井真理子(鈴岡章江)について

「事件」まではとても若々しい母親だったのだが、8年後にはすっかり姿が変わっている。その身体の激変ぶりも凄まじく、筒井さんは13kgを3週間で増量したらしい((すごいのは、声だけの収録をするために後日集まった際、筒井さんの体重は元に戻っていたらしい。増量だけでもすごいのだが元の体型をキープすることも仕事の一環という女優魂を感じるエピソードだ。ちなみにこのエピソードのソースはトークショーで直接深田監督に聞いた。))。

他にもプロテスタントへの信仰心を失っていたり、不潔恐怖症になっていたりする。こうした変化は八坂の支配の中で出来ていったことだ。「事件」は鈴岡家に蛍という禍根を残した。八坂に心を許してしまったことと蛍を守れなかったことは罪の意識として残り、消えることのない「汚点」のようなものになっていた。もともと彼女の信仰は猫型((作中に解説あり。))だったせいか、彼女は神に救われなかった経験と蛍の介護という非日常を通じ神を信じる心を失ってしまう。そして八坂という「汚れ」を落とそうと自分の身の回り、蛍の周りを清め続けるようになる。

そんな彼女も一瞬だけ生きる希望を見出す瞬間がある。それが彼女が、そしてこの作品でほぼ唯一「走る」シーンだ。彼女はそれまで姿勢も悪く、手を不規則にブラブラさせながら歩いていたのに、電話を受け走り出すのだ。そしてその電話の内容は電車の音にかき消されて聞こえない。おそらく内容は「八坂のいまの居所がわかったかもしれない」という利夫からの連絡だろう。そして彼女はまるで走るより速い移動手段が人間にはないことがもどかしいと言わんばかりに走るのだ。自分を8年もの間支配し続けてきた八坂を見つけること。会って何をするのか彼女自身にもわかっていないだろうが、八坂の支配から逃れるためには八坂に会う以外の方法がないことだけは確かだった。自分を苦しめてきた支配から逃れられるかもしれない、その思いは彼女のかすかな生きる希望だった。

だが時間をかけて見つけた八坂らしき人物は、背格好や後ろ姿はよく似ているが人違い。その帰り道、章江は寝て夢を見るのだ、八坂が居なかった場合の今を。そしてそれが夢でしかないことを夢の中で悟ってしまうほどに、彼女は疲弊しているのだ。

ラストシーンについて

最後のシーン。内容は言わないが、圧巻だ。

僕にはこれは、利夫が他人に生きていて欲しいと心の底から願うシーンだと思う。利夫は序盤特に何を考えているのかよくわからない役だが、それは彼の過去が関係している。その過去を引きずっていたせいで家族を救う方向ではなく破滅と八坂の支配の方向へ導いていってしまった。だが利夫はこのシーンでやっと変われたのだと思う。8年かけ、彼は過去に囚われたりせず、自分の意志で他人を救うような行動をとれるようになった。

このラストから家族が、もしくは夫婦が始まるのかもしれない。逆に終わってしまうのかもしれない。僕は前者であって欲しいと願う。

Conclusion

これが家族なんだ

僕が言いたいのは、この映画は最初から最後まで異常な家族を描いたのではなく何の変哲もない家族を描いているということだ。理想の家族像でもなければ、極端な逆境や障害を抱えているわけでもない、隣の家はこういう家庭かもしれないというような家族。序盤から「事件」をきっかけに一旦は崩壊するも、崩壊も時間が経てば非日常になってしまう残酷さも含め、家族っていうのはこういうものなのだ。背負わなくてもいいはずの不条理を背負って家族はなぜかともに生きようとする。

今まで家族に疑問を持ったことなんてなかったが、この映画を見て考えれば考えるほど、家族というのはとても不思議な謎の力によって支えられていることが分かる。つながなくてもいい糸を切れないようになくさないようにつなぎ留め続けようとする特に根拠のない意志が家族を支えているのだと。

そして、鈴岡夫妻は最後まで本当に「夫婦」にはなれなかったのか。登場した瞬間から既に夫婦ではなかったこのふたりは、「事件」の前後で、あるいは物語の前後で夫婦になれたのだろうか。同一の意識がなければ夫婦にはなれないのだろうか。夫婦とは、なんなのだろうか。

僕は独身23歳男性似非映画オタクだ。結婚を語れる日が来るのだろうか。

これが映画なんだ

「アベンジャーズ」のキャッチコピーは挑戦的だった。

日本よ、これが映画だ。

20世紀であればそうだろう。だが時は既に21世紀も15年ほど経っているような時代、いま20世紀的エンタテインメントの権化の映画のキャッチコピーに「これが映画だ」と言われてもまるで新しくない。そんなことは知っている、と返すしかない。

あえて、僕は言いたい。この「淵に立つ」こそが「映画だ」と。 普通の映像、普通の家族、日常を描き、なのにこれほどまでに人々の心を揺り動かす。これこそまさしく映画だ。これは僕が見たかった映画だ。今はまだ先鋭的で革新的かもしれないが、とてつもない可能性を秘めている。

大衆的キャスティングでエンタテインメント要素バッチリな映画は確かに面白いかもしれない。だけど既存の面白さの枠にいつまでも乗っているのは飽きてくる。「淵に立つ」の面白さは既存の映画にはない、新規性のある映画だ。これを見ずして日本映画の未来を語れるものか。

僕が見たいものを作ってくれてありがとう深田監督。あとサインもありがとう、大切にします。

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