自分はアナログな人間だと思う。

職業はプログラマなので、パソコンとかできるんだからデジタル人間なんでしょ(この表現には多分に語弊を含んでいるがあえてこうしている)などと言われること、あるいは思われていることもあるだろう。

だけど僕は0と1で決まることを好んでいるわけではないし(これをデジタルという)、どちらかというとアナログな、グラデーションかかった曖昧な世界というのを受け入れていると思う。

人が持つ価値観にせよ感覚にせよ感情にせよ、定量的に測れるようなものなんてほとんどないのではなないかと思う。例えば人は痛みを感じるし、強い痛い、弱い痛みを感じることができる。でもその人の感じた痛みを第三者に定量的に提示することは不可能だし、それは身体的な傷でも、精神的な傷でもそうだ。そしてそれは人への想いの強さ、恋患いにも当てはまる。

でも、アナログとデジタルの本義に沿った議論が、きっとこの小説では無関係。この小説では、LINEにせよTwitterにせよ、いつでも会いたい人と連絡をとったり、急用ができたとか電車乗り遅れたとか連絡ができる。スマートフォンや、パソコンを使って。一般的にはこういうことをデジタルとかデジタル化社会とか呼ぶんだろう。言葉なんてそんなもんだ。

ただ言葉の意味は間違っていても、便利な時代になったという事実は揺るがない。「約束」をしやすい時代でもあり、「ドタキャン」がしやすい時代になったとも言える。

そんな時代に、例えば。「木曜日に喫茶店で待ち合わせ。来られなかったら、その日は来られないということ。」というデートの約束。

そんなの「アナログ」なデートのお話。

この小説の著者は、ご存知「ビートたけし」である。

僕のビートたけしへの印象は、実をいうと結構微妙だ。昔のことはよく知らないし、芸人というよりもビートたけしという人間のイメージしかない。すごいカリスマだとも思っていないし、一方で憎むことも嫌うこともない。きっと好きではあると思う。氏の小説はひとつも読んだことない。

若者としてはその放言っぷりよりも、「昔のほうがよかった」的な話をしている時の方が腹が立つことがある。まぁそんな感じ。

この小説もそう、主人公は建築デザイナー、LINEどころかスマートフォン、パソコン自体あまり使わないで、模型を作るのに厚紙とか糊を使う。根っからのアナログ派。デートも前述のようにアナログだ。

そんな、老人のたわごとを聞くために読み始めたわけではないんだが……と思いながら読んでいくと、最後に実はたわごとではないことがわかる。そして少しだけ見直した気分になる。

幸せっていうのは、アナログとかデジタルとか、そんなことじゃないのだと。


主人公の水島悟は、ひょんなことから喫茶店で「みゆき」と名乗る女性と知り合い、強烈に惹かれる。そして、上述なアナログなデートを繰り返す。素性も知らぬ彼女に惹かれた水島は、彼女とのデートを中心に生活をするようになっていく。

ひとつの章立てもなく、ひたすら水島の一人称で進んでいく話はテンポが良く、凝った話でもないためとても読みやすい。登場人物も少なく、話もシンプルだ。

終盤の情報量が多すぎるし、展開が急すぎるのもあって、正直うまい小説とは思えない。話としても心に来るものがあるほどでもない。

しかし、どこか不思議な読後感がある。

ともすれば大昔の連続ドラマにありそうな出会いから、ふたりの劇的な恋愛のむすびに、現代社会へひとつ問いかける。

愛するって、こういうことじゃないか?

決して「アナログ」だからでも「デジタル」だからでもない。そもそも愛することに「アナログ」も「デジタル」もない1。ただ、アナログで育まれる愛の形もあれば、デジタルで支える愛の形もある。人と人との関わりのあり方は人それぞれでいい。

水島悟の、長いようで短い、アナログな恋物語。いい物語とは、いい小説とは思わない。

ただ、読んで良かったと思う。そう思える。


  1. 本義に沿えば、アナログでしかありえないのだが。 [return]