NieR:Automata - 失われることで完成する物語
Contents
今日はゲームの話。
僕は「ゲーム」によるエクスペリエンス(わざと書いている)は軽視され続けていると感じている。昔から、アニメや漫画は身近な日本文化として存在しながら、迫害され続けてきた1。最近は昔よりはマシなのだろうが、それでも0になったわけではない。
ゲームによる「経験」
ゲームも依然として軽蔑され続けている。小説を読めという親はいてもゲームをやれという親は少ないだろう。そして最近のゲームの軽視はアニメや漫画などに比べると現在も進行し続けているように感じる2。
私は大衆に訴えるのは得意でも好きでもないのでしない。過去作をやったわけでもないので、時系列ごとのまとめもしないし、全てがわかったわけではない。ここでは、あくまでもこのブログの方針に則して NieR:Automata というゲームの物語に対する個人的な感想を書いておく。
何よりも僕が訴えたいのは、こんな文面によるあらすじやネタバレなんかは情報になんてならない、ということだ。ゲームにより体感できる内容は、僕が初めてゲームをしたときよりもずっとずっと豊かになった。ゲームはそうした豊かな体験の機会を提供してくれる。
それは、ライブに行って音を感じるように。
それは、映画館で物語を鑑賞するように。
それは、美術館で絵画を鑑賞するように。
ゲームが提供する「経験」が、あなたの人生の糧になる。僕はそう信じている。
注意
- 筆者は一応 A, B, C, D, E エンドを見た(D, E は今日見た)。
- 前作のニーアレプリカントはプレイしていない(ネタバレを読んだけどよくわからなかった)。
- 以下の記述からが本編
NieR:Automataの世界
舞台は地球3。人類はあるとき異星人(エイリアン)の地球侵攻を受け、月への退避を余儀なくされた。
エイリアンは人類との戦争に「機械生命体」と呼ばれる兵士たちを導入し、人類は「アンドロイド」という同じくロボットを用いて永きに渡る戦争をしている。
あるとき「ヨルハ部隊」のアンドロイド、2B(ツービー)と9S(ナインエス)は地球での調査の司令を受ける。調査を進めて行くうちに、「単なる機械」、「明確な敵」であった機械生命体たちと触れ、アンドロイドと機械生命体とを分かつものとは何か、そしてこの戦争の背後の真実とは何か。
ゲームシステムをも利用したエクスペリエンス
まず恐れ入ったのが「義体システム」だ。主人公たちアンドロイドの「本体」はバンカーと呼ばれる宇宙拠点の中にデータとして保存され、身体は替えが利く4。死を克服した−−いや正確には最初から命などない−−アンドロイドたちは、自らの義体が故障しても再び任務をやり直せる。おまけに義体を回収すればアイテムなども回収可能だ。
死ぬことがない、命を失うことがないというある種の「安心感」を感じながら僕らは2Bや9Sを操作して任務をクリアしていく。
だが、あるときストーリーの都合上、「バンカー」が使用不可能になる。それ以後、プレイヤーはコンティニューができず、HPがゼロになればロードし直しになる(義体回収ができないので)。ゲーム内のストーリーとゲームシステムとがきっちり連動しているのだ。
この体験を強く後押しするのが、「オートセーブ機能」が存在しないことだ。最近のゲームはオートセーブが多いが、このゲームはオートセーブがないことをなんども警告する人がいるのだが、こうした「体験」をさせるためにオートセーブ機能を削ったのではないかと思う。何事も便利がいいというわけでもないのだ。
ゲームだから感じることができる「罪悪感」
殺生は控えるべき、というのはいつの世も変わらない。アンドロイドたちは人類を守るようプログラムされている、機械生命体を倒すようプログラムされている。
そして繰り返される「機械生命体には感情はない」、「心はない」、「ただの機械」といった内容の主張。プレイヤーは2Bや9Sを介して「彼らを殺すことを躊躇する理由はない」と自分の意志で次々に壊して行く。
だが、戦うことを嫌う機械生命体、王への忠誠を誓う機械生命体、自らを美しくすることに時間を捧げる機械生命体、そうしたものと出会ううちプレイヤーも2Bも疑問を抱き始める。
「彼らには本当に心がないのだろうか」
「そもそも心がないとはどういうことなのか」
ちなみに私は次第に機械生命体を倒すことを躊躇するようになり、敵意を見せない機械生命体は壊さないようになっていった。終盤は敵意丸出しの機械生命体だらけで倒さないことがあまりなかったが。
自らの意志で行ったことに罪の意識を感じる。映画などでは役者の罪が観客に降りかかることは滅多にない5ので、ゲーム特有の経験と言ってもいいだろう。
救いようのない物語
最後までプレイするとわかるが、この物語は完全に無だ。最初から、最後までずっと茶番と言っていい。
戦争をし続ける以上、何かを失う苦しみを感じ続けた挙句にエンディングの「仕打ち」である6。絶望さえするだろう。
その救いようのない物語の最後に一片の希望が生まれる7。それはもしかしたら同じ悲劇を生み出す一歩かもしれない、それはもしかしたらもう一度茶番を繰り返すだけなのかもしれない。
だが、2Bも言ったように、「死ぬより、死なない方がいいに決まっている」。その希望に僕は賭けようと思えた。
そして最後、僕に力を与えてくれた5人に感謝したい。僕がエンディングを見れたのはあなた方のおかげだ。ありがとう。
失われることで完成するもの
この作品の最後を見て少し感じたことがある。
かたちあるものはみないつかかたちを失う。それは「全ての存在は滅びるようにデザインされている」とゲームの冒頭で2Bが言う。
そしてこのゲームは最後に、(任意だが)セーブデータを消すことができる。だが僕は積極的に消した。
なんとなく、消さなければこの物語が「完成しない」気がしたから。
かたちが残されたものはいつか滅びてしまう、セーブデータでさえもいつかは消えてしまう。どんな技術革新を繰り返したって、無尽蔵に保存し続けることは不可能だ。
だから消えることによって、この物語は僕の記憶に「完成形」として残る。かたちはもうないけれど、このゲームにおける僕の「経験」が僕の身体に刻まれる。
そんな、気がした。
- たとえば大人になったらマンガは卒業しよう、などという言葉が迫害にあたる。 [return]
- 自分の想いを詳しく書くとソーシャルゲームの悪口にしかならないので書かない。 [return]
- ここが自明でない物語もあるが、このゲームでは地球と明記されている。 [return]
- この事実は最終エンドに至るまで事実として重要だ。 [return]
- 例えば『虐殺器官』は罪は消費する側にも存在する物語なのだが、おそらくそれを映画で感じることは難しかったのではないかと思う。 [return]
- 他に適切な日本語が思いつかなかった。 [return]
- 知っている人向けに書くと E エンドの話だ。 [return]