以前、『想像ラジオ』という小説を読んだ。Twitterで絶賛しているツイートを見かけて、気になって文芸誌を初めて購入したのだったと思う。

作者の名前は「いとうせいこう」、何をしている人なのかいまもってよく知らない。そして『想像ラジオ』を読み感激し涙したが、「いとうせいこう」はどんな人なのかという問いについてはさらに謎が深まっただけだった。

そして表題の氏のデビュー作を読んで、さらにわからなくなった。

子供たちのネットワーク

今時は幼稚園児やそれよりさらに幼い子供にiPadで遊ばせたり、小学生が熱心にYoutubeをみたり、中学生がLINEでいじめたりする時代だから、子供どうしの「ネットワーク」は文字どおり端末などを通じて子供どうしが繋がっていることをさす。一方で、この『ノーライフキング』が世に出たのは1988年、ソ連崩壊以前である。

おぼろげながら、子供たちの間のネットワークには私にも記憶がある。今のように実際に端末などで連絡をとらなくても、流行っているゲーム、テレビ番組なんかはみんな知っていたし、駄菓子屋のおじいさんの怖い噂話とかで盛り上がったこともあった。中学生になるとより生々しくなって同級生のAとBが交際しているだの、あいつはこっそり援助交際をしているだの1、様々な噂が飛び交っていた。筆者の世代的には中学生くらいでは今でいう「ガラケー」を持っている人は珍しくはなかった2ので、すでに今でいうLINEの役割を携帯電話会社のキャリアメールが担っていた。

今思うと不思議だ、なぜあんなにも「自分が知っていることはみんなも知っている」と信じることができたのだろうか、そして本当に多くのことが共通のこととして知られていた。

現在のネットワーク

現在のことを思い起こすと、自分が知っていることを他者が知っていることはほとんどなくなった。ありとあらゆる場所で一過性のブームが起こっては消えている。

例えば、筆者がよくみているTwitterでは痴漢冤罪の話題がこの2日ほど非常に多い。いつのまにか話題に上らなくなるだろう。他にも冬アニメで「けものフレンズ」が流行っていたがとうとう一度もけものフレンズの話題が職場に出ることはなかった。

今の社会は個々人に合わせて情報さえも最適化された形で提供される仕組みが(ユーザーの意志があるかどうかは別にして)存在している。Google NowというサービスはWebサイトを嗜好に合わせてリコメンドするので典型例だし、TwitterやFacebook、InstagramなどのSNSは自分が興味あるユーザーをフォローするため、自分の意志でもって自分にとって理想の情報源足りうる。

子供のころ僕がとらわれていたネットワークはもっとカオスで、自分にとって不快な情報(そしてそれは誰かにとって愉快な情報)を耳に入れないことに疲弊していたし、興味のないもの、どうでもいいものの中に必要な情報がたまにあるという状態だった。この取捨選択のトレーニングの場であったのかもしれない。

ノーライフキングは生きている

子供の頃に比べると、今のネットワークのほうが僕は健全だと感じる。そもそも個々人において価値観は違うのだから、情報の取捨選択をあらかじめやっておいてくれるのはとても都合がいい。

一方で、不安にもなる。自分がみすみす逃している情報には、本当は有益なものも混じっているのではないかと。たとえば1年後にブームがくる情報を逃しているのではないかと。

かつての子供時代のネットワークは扱える情報規模がとても少なかった。だからこそ全員に共有された。今のネットワークは情報があまりにも多すぎ、全ての情報をネットワークの中にいる全ての人間に提供することができなくなった。自分が一見したが興味がないのではなく、そもそも情報に出会うことが難しい。質のいい情報であればなおさらだ。

だがしかし、現在のネットワークをもってしても時折誰かの強い「意志」を感じることがある。妙に的確な宣伝、一見稚拙だが広範囲に伝播した理屈。まるで意志をもった誰かが大衆を操作させるための情報なのではないか、と疑ってしまうことさえある。

多くの場合それは錯覚だし、ネットワークというひどく抽象的で匿名性の高い空間が見せる現象だろう。だが、なんとなく現在も「ノーライフキングは生きている」かのように感じさせる。

子供たちのネットワークは僕の子供時代とはきっと大きく異なっているだろう。だが、この物語に現れる「ノーライフキング」は今もネットワークの中で生き続けている気がする。


  1. 事実だったのかはわからない。 [return]
  2. 筆者自身は中学生のときは持っていなかった。あまり興味がなかった。 [return]