ダゲレオタイプの女の感想: 幸せになりたい。
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ダゲレオタイプの女を見た。監督は黒沢清だがフランス映画である。
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愛が幻影を見せ、
愛が悲劇を呼ぶ
僕は黒沢清の映画は「クリーピー 偽りの隣人」しか見ていない。これは面白い映画だった。「淵に立つ」と似ているが主題は全く違う映画で、僕はかなり楽しんだ。過去に書いたので、過去記事を貼っておくだけにしておく。
[http://hikaru515.hatenablog.com/entry/2016/06/19/011628:embed:cite]
さて、この「ダゲレオタイプの女」、どことなく不思議な香りのする映画でとても見応えがある。まずダゲレオタイプという170年前からの伝統的な写真、パリから離れたフランスの郊外が舞台で、フランス語を喋っていることと昼間からワインを飲んでいること以外にはあまりフランスを感じない。古風な広い屋敷に温室がある。父は気難しい写真家で娘をモデルにしているときたらそれだけで怪しさ満点。
まーたマニアックな映画を見てひとりで盛り上がってと思われるかもですが、お前若いんだし「何者」とか見とけよとか思いますが((ちなみに全く見る気はありません。))、今回はさらっと書きます。
今回はネタバレなしです!
あらすじ
妖しい洋館で働くことになる主人公ジャン。ジャンはダゲレオタイプの撮影の助手になり、気難しい写真家ステファンと仕事をすることになる。その仕事の中にはファッション誌の写真撮影の他、ステファンの実の娘マリーをモデルに等身大のダゲレオタイプを撮影することの補助も含まれていた。
ステファンはマリーに執着していたが、マリー自身はそれを嫌がっていた。ダゲレオタイプの撮影は長時間身体を拘束され負担が大きく、彼女自身が「生きているのか死んでいるのかわからなくなる」と述べていた。また、ステファンの妻ドゥニーズは自殺し、そのことがステファンを今でも苦しめているとジャンに明かす。
ジャンとマリーは次第に親しくなり、ジャンはマリーをステファンから救い出し二人で暮らしたいと思うようになる。そんな折、マリーは母親から受け継いだ温室で植物を育てた経験が評価され、家を出て植物園で働くことになった。マリーは意を決して家を出ることをステファンに告げる。取り乱した様子もなかったステファンだったが、その晩ある事件が起きて……
感想
今回はさらっと書く。
「異国の地」
フランス語っていいよね。中途半端に英語勉強したもんだから英語ってある程度は聞き取れて、英語を話している人を見ると現実味があるんだけど、フランス語を喋っている人は会ったことがないしフランス語の看板とか読めないから「異国の地」感があってすごくいい。これは個人的な好みの話だけれど。
ホラー要素
ひとりでに動く扉とか、愛が見せる幻影とか、何を考えているのか全くわからない後ろ姿や虚ろな表情、一人称視点などどことなく怖い要素満載。明確な脅威があるわけじゃないから余計怖い。
ラストシーンなんて鳥肌が立った。夢と現実も生と死も愛の力で混同してしまう。誰が正しいのかなんて誰にもわからない、人は同じものを見ているようで全く違うものを見ている。
思うトコロ
「幸せな生活」ってなんだろうね。この映画では幸せなんて所詮幻だと言うが、同じように幻を心の底から信じることができれば案外本人にとっては幸せかもしれないとも描いている。あるいは現実ってなんだろうか、真実ってなんだろうか。虚構も嘘も排して本当に人って幸せになれるのかな。
現実を見ろというが、そもそも現実なんてひどく抽象的なものだ。人は主観でしか物事を捉えられないし、錯視のように正しく物事を観察できないことなんてよくある。本当の客観なんてものは幻想に近い((もちろん客観に近づけるために努力をしている人たちはいるが、逆に努力しないとできないことだということを示唆している。))。
映画もそれ自体がたいてい虚構(フィクション)だ。映画を見ている間は楽しいから良いじゃないかと、では普段の生活で自分の望み通りに勘違いを自由にしない、できない理由はなんだろう。映画はいいのに日常生活ではダメな理由ってなんだろう。
よくわかんないけど、幻を見続けるのってそこまで悪いことでもないんじゃないかなってこの映画を見て思った。
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