今年の東宝、文芸作品によってない?って思ったけどサンプル数2だったのであまり信頼のおける数字じゃないですね。

劇場で予告編をたくさん見させられたんですが、8年越しの花嫁のback numberが歌う主題歌がいい曲すぎて感動しました。今日の上映で一番感動したのはそこです。

ええ、いまから書きますけど、なんの感動もしませんしなんの感慨もわきません。ただただ、そこには人生があるだけ。

「人を笑わせること」に対し、10年間を捧げた人生がある。

これ以上、”面白い”ものがありますか?

文芸作品

芸人が芸人が出てくる作品を描く、というとコメディが出てくる気がするものかもしれません。いや、僕は又吉直樹の原作を読んではいませんが、原作が芥川賞受賞作であり、今作の監督が板尾創路という時点できっと文芸作品になるだろうと予期はしていました。

それはあらすじを言葉にすれば陳腐なもので、そこに現れる人たちは決して正義のヒーローでもなければ、何かしら大義があってそこにいるわけでもない。大衆娯楽作品というよりも、人を選ぶ、マニア向けの内容かもしれないと。

そんな映画であることを期待していました。

確かに漫才はしている。でも漫才をお笑いとして、コメディ映画の空気として見せているわけでは決してない。芸人の表舞台──それは例えば漫才の舞台であり、テレビ番組──を描いた作品ではなく、芸人の人生、芸人の生活、芸人として生きるということを問うた、いわば芸人の哲学の映画です。

そんなものを全国ロードショーした東宝は気が狂ったとしか僕には思えないんですが、僕はこういうの歓迎です。

終わらない物語

この映画には終わりがありません。

もちろん映画なのでスタッフロールが流れ、スクリーンへの投影は終わり、映画館の電気はつきます。そういう意味では終わるんですが、この物語は決して終わりはしません。

それはちょうど、最後に神谷(桐谷健太)が言うように、芸人には引退はないということと同じ。

芸人を続けている人も、芸人を辞めた人もいろんな形で生きている。テレビに出るとか、わかりやすい形での芸人として成功や栄華が終わったとしても、一度舞台に立ち、一度その世界に足を踏み入れ自分の理想を、自分自身を表現したものたちです。舞台に立たなくなっただけでその過程が、その人生が無駄になったわけではない。

スパークスも、あほんだらも、芸人の糧のひとつ。一度舞台に立ち、10年間気が狂うほどに笑いを追求した者として。

これはきっと、芸人に限らない。舞台に立つ、そのために行動を起こす。その過程は決して無駄にはならない。その先がたとえ自分の理想とはかけ離れたものであっても。

そしてその糧が体に染み付いて、今がある。

私見

僕なんかは舞台に立つ前に臆病風に吹かれて逃げ出した人間です。僕が少し前に立とうとしていた舞台、僕が立てなかった舞台に僕の同級生や後輩は今もチャレンジし続けています。

自分の判断は決して間違ったものではなかったと、僕は言います。ですが、この物語の神谷のように、もっとアホで、もっと愚かでありたかったとも少し思うのです。

自分の身も、心もぶっ壊してでも、自分の目指す舞台を目指すべきだったのではないのかと。きっとそんなことをしたあかつきには自分も自分以外のあらゆる人も悲しませるようなことになっていたと思いますが。

でも1度しかない人生、死んだら終わりの儚き人生のうちくらい。自分がどうしようもない「アホ」になりたいと。20代をドブに捨てたいと。

そんな、大学に入った時の無意味に熱かった自分の感情を少しだけこの映画を見て思い出しました。

憧れとして、僕も神谷のようになりたい。

総評

気になる部分は他にもありますが、僕としてはこれくらいでいいです。十分感傷に浸れています。こんなにも、心に残る映画は久しぶりです。

明日からも僕は徳永のように、一度夢破れた人間として生きていきますが、ときどき、1日くらい、神谷のようにまたあとさき考えずに行動したいものです。