あてられたからには語り尽くそうじゃないか - 打ち上げ花火 下から見るか、横から見るか?
Contents
何度も何度も、この映画について話題にするのは進歩がないのかもしれないが、好きなので許してほしい。
今日は全力で私的な感想を詩的に書いていこうと思う。ここに書いてあることは一ファンのたわごとです。
ネタバレがあるとかないとか特に気にしないで書くので未見の方は注意。
前提
この怪文書を書いた男(24歳)は、2017年9月2日(この記事を執筆し始めた時点)で映画「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を5回鑑賞しており、この映画について事あるごとに絶賛し、Twitterで「見たい」、「見た」、「また見たい」などと毎日つぶやいているような人間である。
打ち上げ花火、昨日も言ったけどわかりやすくいい話じゃないし、なんならむしろ娯楽としての側面はほぼゼロになってしまってるんだけど、よく考えると俺はそういう映画が好きなんだよ。
— 515ひかる (@515hikaru) 2017年8月31日
打ち上げ花火に限った話ではないんだけど、作りものの感動やエンターテイメントが世の中を席巻する中で、たまにこんな、ほとんどの人の心に響かない、主人公も何もできない、そんな映画があってもいいじゃないですか。
— 515ひかる (@515hikaru) 2017年8月31日
上記のような感想も含め、この怪文書ではいろいろと書きたいことを書いていく。
序論 - この映画は「何」だ?
ことあるごとに僕は映画について次のような持論を展開してきた。映画とはエンターテイメントという側面の他に、芸術のようなもの、心を豊かにするものだということ。そして前者に、卑近な言い方をすれば「売れる映画」に注目が集まりがちな現在の日本映画の状況はあるけれども、僕は後者が好きだということだ。
映画はただ人を楽しませるだけでなく、考え込ませたり、生きる糧となるような言葉では言い尽くせないものを与えてくれたりする、不思議な魅力を持った媒体だと思う1。
そして僕は前者のつもりでこの映画を見てしまった。そこにはいくつもの先入観–東宝が配給、企画・プロデュースが川村元気、声優初経験の菅田将暉が主役のひとり、昨年の君の名は。の大ヒットなど–があったからだ。僕はこの映画を最初は純粋に作品単体では見ておらず、「いつものをよろしく」という気持ちで見ていたのだ。
それが、初見の感想の「つまらない」に集約されたのだと思う。
期待していたものと違う、悪い期待の裏切られ方をした。また主人公たちの年齢がわからず、全体的に戸惑った。そんな状況の中で、「あれも不満、これも不満」、湧いてくる釈然としない感じ2。
そんな80分を過ごしたのだけど、最後の10分でまた大きく気持ちが変わった3。斜に構えて見ていた僕に有無を言わさぬ「美しさ」が飛び込んできたからだ。
なずなの美しさ、「if」のかけらの美しさ、音楽 Forever Friends の美しさ、圧倒的な調和と映像美、そして最後の典道となずなのキス。その時間、その空間を鑑賞するために俺は1,800円払ったんだと思った。
その後、僕はこの映画についてずっと考えていた。何かがおかしい、自分の中では「つまらない映画」という結論が出ていたはずなのに、時間が経てば経つほどに「いい映画だった」気がしてくる。そして、気づいたのだ。
この映画はいつものような娯楽作品ではない。 よく比較される「君の名は。」でも、スパイダーマンやマトリックスみたいな映像を見ているだけで歓喜し、興奮し、感動する映画ではない。
むしろ 芸術作品や文学作品を愉しむように鑑賞するべき映画なのだ と。例えるなら(例えられないけど)、それは 「淵に立つ」であり、「ファイト・クラブ」であり、「ダゲレオタイプの女」なのだと思う4。
この映画はアニメという媒体で、夏休みに公開され、東宝が配給した、川村元気プロデュースなのに、わかりやすい娯楽作品ではない。この結論を得ると、映画全体の趣が違って見えてくる。そして、観客(僕)が見るべき部分が変わってくる。
典道が創り出した世界 - なずなを守るために作った世界
少しずれたふたり
しかし、典道が創る世界は(典道が幼いのもあり)基本的に「(なずなの母親などから)逃げる世界」(3つめの if の世界)や、「殻にこもった世界(4つめの if の世界)」しか創り出すことができない。
典道は「今日」をなんども経験することでなずなや安曇と比べ成長をする。自身の本心に気づき、3つめの世界では「たとえお前がどこかへ行ってしまうとしても、今日だけは一緒に居たい」と聞いているこっちが恥ずかしくなる台詞を吐いていたりする。
しかし、典道は中学生で(たぶん)都会でデートをしたことも、11両ある東京の満員電車に乗ったこともないような田舎のガキで、なずなを守る方法をよく知らない。だから彼はなずなを守るためにどんどん内向きになっていく。その最終形態が4つめの「おかしな世界」だ。
花火がおかしな形をしていたとき、なずなは「ふたりで居られるのなら花火の形なんてどうでもいい」と言った。
しかし、世界がおかしくなっていたとき、なずなは「世界がおかしくなっていたってどうでもいい」とは言わなかった。
なずなの望みは、たとえば散らばった if の中にみた東京駅を歩く二人、水族館へいく二人など「少し遠い場所でのちょっとした非日常」だったのだろう。しかし、典道が用意した世界は日常の殻に閉じこもることしかできなかった。
典道が、「なずなを失うくらいなら、このおかしな世界でお前とふたりで居たい」と言う。典道はなずなの願いとは少しずれた、内向きな自分勝手な思考で逃げることしか考えられなくなっている。
もしも玉爆発 - if の世界の破片
果たしてなずなが世界を戻したかったのか、戻す保証はどこかにあったのか。それは誰にもわからない。だが、典道が望んで創り出した世界は(自分も何かおかしいと言っていたように)なずなの望みとはずれていた。
だからなずなは、この世界から出るという意思表示も兼ね問うた: 「次会えるの、いつかな?」
その直後、もしも玉は爆発し、あり得た世界、あり得なかった世界の破片が降り注ぐ。このシーンは筆舌に尽くしがたいので5各自劇場でごらんください。
なずなは偶然落ちてきた if の破片を見ており、一方典道が破片を 1 つその手で「捕まえて」いる6。降ってきたのは当然 if の世界の破片だ。しかし if は別に「起こり得ない」ことではない。 if を「未来」に変えることだってできる。このときの典道の跳躍となずなの笑顔が、少しずれていたふたりの心がまたひとつになったことを表している。
典道は自分の手で、未来を選んだ。ほんの数十秒先の、5分もない短い時間の未来だとはいえ、自分で決めた。なずなを守るためとはいえ、世界は離れること、殻にこもって逃げることを優先してきた典道が、本当にするべきことに気づいた瞬間だった。
典道は、逃げずに一歩、ほんの一歩だけだが世界の外へと踏み出した
エピローグ
最後、及川なずなは三浦先生に名前を呼ばれず、島田典道は教室にいない。
正直こんなものは答えがないので何を言っても構わないと思っているし、なんなら僕は「始業式の日から寝坊したんだろう」と思っている。
一方で、典道が教室に居ないことで広がり、深まりがあることも確かだ。典道はいつもの世界や逃げ出すことしかできなかったのが成長し、一歩踏み出せたのだ。もしかしたら、なずなに会いにどこかへ行っているのかもしれない。
彼が教室にいないからこの映画は終われる。もし教室にいたら、いつもの日常が、もしものない世界が何もなかったかのように始まってしまうから。