どこまでも、純粋に映画だった。「淵に立つ」
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映画のひとつの側面としてエンタテインメント性がある。人を楽しませたり、笑わせたり、泣かせたり、クールだと思わせたりすること、それは映画に期待されるひとつの側面だ。そしてエンタテインメント性の担保のために装飾をする。それはときにファンタジー的世界観であったり、最後に謎が明かされるミステリィ的展開であったり、正義が悪を倒すカタルシスであったりする。「シン・ゴジラ」だったら、たとえそれまでの話を全くわからなくても最後のヤシオリ作戦は面白いと思えるように作られているし、「君の名は。」もハッピーエンドで終わる。スーパーマンは負けないし、スパイダーマンは世界を救う。
でもそうした装飾がなければ映画って作れないものなのか?
結論から申し上げよう、それは偽だ。反例はこの映画「淵に立つ」だ。
映画とは観客に映像を見せるということで、実は必ずしもエンタテインメントである必要はない。ここに映し出されているのは「日常」から切り取られた映像と、ほんの少しの「非日常」。そして底流に横たわっているのは、誰にも見えないけれど少しずつ、本当に少しずつ「日常」を蝕んだ「呪い」。
いつもだったら、もう少し僕は書きたいと思うだろう。それは例えば主演浅野忠信の演技、こだわりが見える「後ろ姿」、響く生活音、役者の顔が映えるかどうかは全く気にしていないカット、罪と罰、その事件で失ったもの得たもの、などなど。書けるし、普段なら僕は書く。
でもさ、この映画でそんなの全部野暮なんだよ。
全部、見ればいいから。僕がこの映画を面白いなんて声高に主張する必要はないし、感想を書きたいとも解説したいとも全く思わない。僕が言いたいことは、この映画はとても純粋で、だからこそとても映画になっていること。そして、僕が見たかった映画はこういうものだということ。
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製作してくださった方、本当にありがとうございます。僕は大満足で劇場をあとにしました。
結果:
あ……放心状態で淵に立つのパンフレット買うの忘れた……
— ひかる (@515hikaru) 2016年10月8日
ま、そんなときもあるよね。